祖母の懐中時計は、止まったままの時間を静かに抱えていた。
その日は、まるで夢の中のように霞んでいた。季節は秋の終わり。校門を出てすぐの銀杏並木が、金色の絨毯を敷き詰めるように足元を染めていた。
放課後の帰り道、紗月はふと、制服のポケットに入れていた懐中時計を取り出した。深い藍色の蓋には、月と星の模様が刻まれていて、小さな銀の星が中央で輝いている。
「……おばあちゃんの、大事にしてたやつ」
優しかった祖母が亡くなったのは、ちょうど半年前の春。遺品整理のときに、この時計だけはなぜか紗月に手渡された。
時間は午後4時を指したまま、ずっと動かない。けれど、その針を見ていると、不思議と心が落ち着いた。
そのときだった。
風が、ひときわ強く吹いた。落ち葉が舞い上がり、時計の蓋がふわりと開いた。
――カチリ。
止まっていたはずの針が、ゆっくりと動き出した。
「え……?」
驚いて見つめる紗月の目の前に、風に乗って、白い紙片が舞い降りた。それは、まるで誰かが手紙を届けたかのように、彼女の足元に落ちる。
拾い上げてみると、そこには優美な筆致でこう書かれていた。
『月の庭へ、おいで。星があなたを待っています』
紗月は、その言葉を読み終えると、時計をそっと胸元にしまった。
心の奥に、小さな光がともった気がした。けれどそれが何を意味するのかは、まだ彼女にはわからなかった。
ただ、不思議と迷いはなかった。
その日、彼女は初めて「寄り道」をしたのだった。
* * *
地図にも載っていない小道をたどると、不意に開けた場所に出た。そこは静けさに包まれた庭園だった。
月光を模したライトが点在し、白い石畳の小道の先に、古びた木造の建物が佇んでいた。入り口には小さな看板が掲げられている。
《月の庭 — 星と植物のラウンジ —》
紗月はそっと扉を押した。カラン、と小さな鈴が音を立てる。
中に入ると、ほんのりとラベンダーの香りが漂っていた。柔らかな照明と、所々に置かれた植物たち。まるで異世界に迷い込んだような、そんな空気。
その奥に、女性が立っていた。
長い黒髪を緩やかに結い、深い藍色のドレスをまとったその人は、まるで星の精のようだった。
「ようこそ、『月の庭』へ。今夜の空は、ご覧になりましたか? 月がとても綺麗ですね」
その声に、紗月はなぜか懐かしさを感じた。
「あなたを待っていましたよ。星々が、そっとあなたの名前をささやいていたのです」
「……あなたが、セレナさん……?」
彼女は微笑んだ。
「ええ。さあ、おかけください。お疲れのようですね。よろしければ、温かいハーブティーでもいかがですか?」
促されるままに、紗月は奥のテーブルについた。目の前には、淡い青の陶器のカップがそっと置かれた。
月の光のように優しい味がした。
こうして、紗月の『太陽を見つける旅』が、静かに始まったのだった。
* * *
セレナは、棚から一冊の革装丁の書物を取り出した。それは紗月のネイタルチャートを記したもので、銀のインクで精密な星の配置が描かれていた。
「紗月さん……あなたの太陽は、魚座の12ハウスにあります。これは、誰にも見えない深い水底に、星が輝いているような配置です」
「……それって、どういうことですか?」
紗月は少し戸惑った表情でたずねた。
「見えないものにこそ、あなたの本質が宿っているということ。夢、直感、感受性……あなたが何気なく受け取っている“空気”や“雰囲気”の中に、誰かを癒す力があるのです」
セレナはチャートの中に描かれた、海王星と太陽の穏やかなトラインを指し示した。
「これはインスピレーションを受け取る才能。そして、あなたの心の深海にいる『本当の自分』を、今はまだあなた自身が見つけようとしている段階なのかもしれません」
「……私の太陽……眠ってるんですか?」
「ええ。でも安心してください。星はね、時が来れば、必ず光を放つんです。あなたの太陽も、きっと」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。自分でも理由がわからない涙が、そっと頬を伝った。
そして紗月は、まだ知らぬ自分自身の旅に、心を向け始めたのだった。
* * *
次の日、紗月は夢を見た。
広い水面の下、静かな海の底に、一粒の星が眠っている。
それは彼女の太陽だった。
星はゆっくりと目を覚まし、金色の光を放ち始める。けれどその光は、まだ周囲を照らすには小さく、かすかに震えていた。
目を覚ますと、まぶしい朝の光が差し込んでいた。
登校中、彼女はふと、校舎裏の美術室に目をやった。
そこで彼女は、初めて彼を見た。
窓辺でキャンバスに向かい筆を動かす、少し癖のある茶色の髪。
遠くを見つめるような、深い瞳。
透真。
それが、彼の名前だった。
* * *
その日、放課後の美術室は静かだった。
偶然を装って立ち寄った紗月は、教室の扉越しにそっと覗き込んだ。筆の動きは迷いなく、けれどどこか、孤独な光を纏っている。
――何を、描いているんだろう。
透真はふと気配に気づいたのか、振り向いた。
「あ……ごめんなさい、のぞくつもりじゃなくて……」
とっさに言い訳しながら、紗月は顔を赤らめた。
透真は微笑んで言った。
「別に。君、誰?」
「えっと、二年の、藤崎紗月っていいます……」
「ふーん、紗月。なんか月っぽい名前だね」
その言葉に、紗月の胸が小さく鳴った。
「これ……見る?」
透真がキャンバスを少しこちらに傾けた。
そこには、蒼い海の底で眠る光の粒が描かれていた。
「これ……」
夢で見たあの光景と、そっくりだった。
「……不思議だね。初めて会ったのに、君の中にあるものを描いた気がする」
透真の言葉に、紗月の太陽が、ふと胸の奥で瞬いた。
* * *
それからの毎日、紗月は少しずつ、透真と話すようになった。
放課後の美術室。放課後の「月の庭」。
昼と夜、それぞれの世界で、自分の輪郭が少しずつ確かになっていくのを感じていた。
ある日、透真はぽつりとつぶやいた。
「俺、卒業したら海外の芸術学校に行こうと思ってる。ずっと昔から夢だった」
「……すごいね」
眩しかった。まるで昼の太陽のように、自分の夢を語れるその姿が。
「でも……怖くもあるよ。夢が叶った先に、自分がちゃんといるのかどうか、分からなくてさ」
その言葉に、紗月は胸を突かれた。自分もまた、何かになろうとすることに臆病だった。
* * *
季節は冬へと移り、街はイルミネーションに包まれた。
ある夜、セレナの元を訪れた紗月に、彼女はそっと言った。
「今、空では木星があなたの太陽と重なろうとしています。これは“目覚め”のとき。紗月さん、あなたの中にある光に、名前を与えてあげてください」
「名前……?」
「ええ。自分の太陽が何のために輝くのか。それを、あなた自身が知る必要があるのです」
紗月は迷った。
でも、その夜の夢の中で、再び星の海に沈んだとき、彼女ははっきりと感じた。
――私は、人の心の奥にある“光”を感じることができる。
* * *
卒業制作展の準備が進む中、透真が言った。
「紗月。君って、絵は描かないの?」
「……私、描くのは苦手。でも……」
彼女は、懐中時計を取り出した。
そして、そこに浮かび上がった図案をもとに、ある物語を書いた。
それは「月と太陽の物語」。
互いを見つけるまで、長い闇を旅したふたつの光の物語だった。
透真の絵と並べて展示されたその物語は、多くの人の心に残った。
「ねえ、紗月。これ……一緒に作品にしていかない? 絵と物語、ふたりで」
「……うん!」
あの日、止まっていた懐中時計は、今も静かに時を刻んでいる。
* * *
エピローグ――春。
大学に進学した紗月は、近くの絵本カフェでアルバイトを始めた。
カウンターの奥に座り、注文の合間に本を並べていると、小さな女の子が近づいてきた。
「ねえ、お姉さん。これ、どんなお話?」
女の子が手にしていたのは、『月と太陽の物語』だった。展示の後、小冊子として限定販売されたものだった。
「ああ、それはね……海の底で眠っていた星が、空の太陽に出会うお話だよ」
女の子はしばらく表紙を眺めたあと、ふと顔を上げて言った。
「お姉さんの星も、どこかにあるの?」
思いがけない問いに、紗月は少し笑って答えた。
「私の星は……海の底で、ずっと眠ってたの。でも、最近ちょっとずつ目を覚まし始めたの。魚の星。やさしいけど、すごく深い場所にあるんだ」
女の子は目を丸くして「きれい」と言った。
紗月は笑った。 胸の奥に、確かな光がある。
それは、彼女がようやく名前を与えた、自分の“太陽”だった。 祖母の懐中時計は、止まったままの時間を静かに抱えていた。
その日は、まるで夢の中のように霞んでいた。季節は秋の終わり。校門を出てすぐの銀杏並木が、金色の絨毯を敷き詰めるように足元を染めていた。
放課後の帰り道、紗月はふと、制服のポケットに入れていた懐中時計を取り出した。深い藍色の蓋には、月と星の模様が刻まれていて、小さな銀の星が中央で輝いている。
「……おばあちゃんの、大事にしてたやつ」
優しかった祖母が亡くなったのは、ちょうど半年前の春。遺品整理のときに、この時計だけはなぜか紗月に手渡された。
時間は午後4時を指したまま、ずっと動かない。けれど、その針を見ていると、不思議と心が落ち着いた。
そのときだった。
風が、ひときわ強く吹いた。落ち葉が舞い上がり、時計の蓋がふわりと開いた。
――カチリ。
止まっていたはずの針が、ゆっくりと動き出した。
「え……?」
驚いて見つめる紗月の目の前に、風に乗って、白い紙片が舞い降りた。それは、まるで誰かが手紙を届けたかのように、彼女の足元に落ちる。
拾い上げてみると、そこには優美な筆致でこう書かれていた。
『月の庭へ、おいで。星があなたを待っています』
紗月は、その言葉を読み終えると、時計をそっと胸元にしまった。
心の奥に、小さな光がともった気がした。けれどそれが何を意味するのかは、まだ彼女にはわからなかった。
ただ、不思議と迷いはなかった。
その日、彼女は初めて「寄り道」をしたのだった。
* * *
地図にも載っていない小道をたどると、不意に開けた場所に出た。そこは静けさに包まれた庭園だった。
月光を模したライトが点在し、白い石畳の小道の先に、古びた木造の建物が佇んでいた。入り口には小さな看板が掲げられている。
《月の庭 — 星と植物のラウンジ —》
紗月はそっと扉を押した。カラン、と小さな鈴が音を立てる。
中に入ると、ほんのりとラベンダーの香りが漂っていた。柔らかな照明と、所々に置かれた植物たち。まるで異世界に迷い込んだような、そんな空気。
その奥に、女性が立っていた。
長い黒髪を緩やかに結い、深い藍色のドレスをまとったその人は、まるで星の精のようだった。
「ようこそ、『月の庭』へ。今夜の空は、ご覧になりましたか? 月がとても綺麗ですね」
その声に、紗月はなぜか懐かしさを感じた。
「あなたを待っていましたよ。星々が、そっとあなたの名前をささやいていたのです」
「……あなたが、セレナさん……?」
彼女は微笑んだ。
「ええ。さあ、おかけください。お疲れのようですね。よろしければ、温かいハーブティーでもいかがですか?」
促されるままに、紗月は奥のテーブルについた。目の前には、淡い青の陶器のカップがそっと置かれた。
月の光のように優しい味がした。
こうして、紗月の『太陽を見つける旅』が、静かに始まったのだった。
* * *
セレナは、棚から一冊の革装丁の書物を取り出した。それは紗月のネイタルチャートを記したもので、銀のインクで精密な星の配置が描かれていた。
「紗月さん……あなたの太陽は、魚座の12ハウスにあります。これは、誰にも見えない深い水底に、星が輝いているような配置です」
「……それって、どういうことですか?」
紗月は少し戸惑った表情でたずねた。
「見えないものにこそ、あなたの本質が宿っているということ。夢、直感、感受性……あなたが何気なく受け取っている“空気”や“雰囲気”の中に、誰かを癒す力があるのです」
セレナはチャートの中に描かれた、海王星と太陽の穏やかなトラインを指し示した。
「これはインスピレーションを受け取る才能。そして、あなたの心の深海にいる『本当の自分』を、今はまだあなた自身が見つけようとしている段階なのかもしれません」
「……私の太陽……眠ってるんですか?」
「ええ。でも安心してください。星はね、時が来れば、必ず光を放つんです。あなたの太陽も、きっと」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。自分でも理由がわからない涙が、そっと頬を伝った。
そして紗月は、まだ知らぬ自分自身の旅に、心を向け始めたのだった。
* * *
次の日、紗月は夢を見た。
広い水面の下、静かな海の底に、一粒の星が眠っている。
それは彼女の太陽だった。星はゆっくりと目を覚まし、金色の光を放ち始める。けれどその光は、まだ周囲を照らすには小さく、かすかに震えていた。
目を覚ますと、まぶしい朝の光が差し込んでいた。
登校中、彼女はふと、校舎裏の美術室に目をやった。
そこで彼女は、初めて彼を見た。窓辺でキャンバスに向かい筆を動かす、少し癖のある茶色の髪。
遠くを見つめるような、深い瞳。透真。
それが、彼の名前だった。
* * *
その日、放課後の美術室は静かだった。
偶然を装って立ち寄った紗月は、教室の扉越しにそっと覗き込んだ。筆の動きは迷いなく、けれどどこか、孤独な光を纏っている。
――何を、描いているんだろう。
透真はふと気配に気づいたのか、振り向いた。
「あ……ごめんなさい、のぞくつもりじゃなくて……」
とっさに言い訳しながら、紗月は顔を赤らめた。
透真は微笑んで言った。
「別に。君、誰?」
「えっと、二年の、藤崎紗月っていいます……」
「ふーん、紗月。なんか月っぽい名前だね」
その言葉に、紗月の胸が小さく鳴った。
「これ……見る?」
透真がキャンバスを少しこちらに傾けた。
そこには、蒼い海の底で眠る光の粒が描かれていた。
「これ……」
夢で見たあの光景と、そっくりだった。
「……不思議だね。初めて会ったのに、君の中にあるものを描いた気がする」
透真の言葉に、紗月の太陽が、ふと胸の奥で瞬いた。
* * *
それからの毎日、紗月は少しずつ、透真と話すようになった。
放課後の美術室。放課後の「月の庭」。
昼と夜、それぞれの世界で、自分の輪郭が少しずつ確かになっていくのを感じていた。ある日、透真はぽつりとつぶやいた。
「俺、卒業したら海外の芸術学校に行こうと思ってる。ずっと昔から夢だった」
「……すごいね」
眩しかった。まるで昼の太陽のように、自分の夢を語れるその姿が。
「でも……怖くもあるよ。夢が叶った先に、自分がちゃんといるのかどうか、分からなくてさ」
その言葉に、紗月は胸を突かれた。自分もまた、何かになろうとすることに臆病だった。
* * *
季節は冬へと移り、街はイルミネーションに包まれた。
ある夜、セレナの元を訪れた紗月に、彼女はそっと言った。
「今、空では木星があなたの太陽と重なろうとしています。これは“目覚め”のとき。紗月さん、あなたの中にある光に、名前を与えてあげてください」
「名前……?」
「ええ。自分の太陽が何のために輝くのか。それを、あなた自身が知る必要があるのです」
紗月は迷った。
でも、その夜の夢の中で、再び星の海に沈んだとき、彼女ははっきりと感じた。――私は、人の心の奥にある“光”を感じることができる。
* * *
卒業制作展の準備が進む中、透真が言った。
「紗月。君って、絵は描かないの?」
「……私、描くのは苦手。でも……」
彼女は、懐中時計を取り出した。
そして、そこに浮かび上がった図案をもとに、ある物語を書いた。それは「月と太陽の物語」。
互いを見つけるまで、長い闇を旅したふたつの光の物語だった。透真の絵と並べて展示されたその物語は、多くの人の心に残った。
「ねえ、紗月。これ……一緒に作品にしていかない? 絵と物語、ふたりで」
「……うん!」
あの日、止まっていた懐中時計は、今も静かに時を刻んでいる。
* * *
エピローグ――春。
大学に進学した紗月は、近くの絵本カフェでアルバイトを始めた。
カウンターの奥に座り、注文の合間に本を並べていると、小さな女の子が近づいてきた。
「ねえ、お姉さん。これ、どんなお話?」
女の子が手にしていたのは、『月と太陽の物語』だった。展示の後、小冊子として限定販売されたものだった。
「ああ、それはね……海の底で眠っていた星が、空の太陽に出会うお話だよ」
女の子はしばらく表紙を眺めたあと、ふと顔を上げて言った。
「お姉さんの星も、どこかにあるの?」
思いがけない問いに、紗月は少し笑って答えた。
「私の星は……海の底で、ずっと眠ってたの。でも、最近ちょっとずつ目を覚まし始めたの。魚の星。やさしいけど、すごく深い場所にあるんだ」
女の子は目を丸くして「きれい」と言った。
紗月は笑った。 胸の奥に、確かな光がある。
それは、彼女がようやく名前を与えた、自分の“太陽”だった。