言葉に出会い、言葉に導かれる日々の中で、私はずっと揺れ続けてきました。星を読む言葉、人に伝える言葉、自分の内側にある言葉。励まされることもあれば、悩まされることもあります。軽やかに表現したい瞬間もあれば、丁寧に選びたい瞬間もある。複雑な感覚を抱えながら言葉と向き合い続けることが、私にとっての自己探求なのだと気づいたのです。
占星術の言葉に出会い、救われた私の物語
出版社で働いていた20代後半、第一子を出産した後の私は孤独の中にいました。幸せなはずなのに、言葉にできない違和感を抱えていたのです。偶然読んだホロスコープの記事が、孤独を抱えた私の心を照らしてくれました。「月やぎ座」という言葉が、私の感情に名前を与えてくれたとき、初めて自分を理解できた気がしたのです。言葉が持つ力を、初めて実感しました。
言葉に出会う前|名づけられなかった感情たち
出産後、私は言葉にできない孤独を抱えていました。子どもは可愛い。夫も優しい。でも、心のどこかに重たい霧がかかっているような感覚がありました。
「幸せなはずなのに」と自分を責める日々。周りからは「良いお母さんだね」と言われるたび、息が詰まりそうになります。本当の気持ちを誰にも言えず、胸の中でぐるぐる回り続ける感情。言葉にできない苦しさでした。
母親である自分と、それ以前の自分。二つの間で引き裂かれているような感覚を、どう表現すればいいのかわかりません。言葉を持たない感情は、形を持たない霧のように私を包み込み、出口の見えない迷路の中を彷徨っているようでした。
夜、子どもを寝かしつけた後、一人でぼんやりとスマホを眺める時間。誰かに話したいけれど、何をどう話せばいいのかわからない。名前のない感情は、誰にも届けられないのです。
「月やぎ座」という言葉が私に与えてくれたもの
ある夜、偶然目にした占星術の記事。自分のホロスコープを初めて読んだとき、胸が震えました。
「月やぎ座の人は、責任感が強く、真面目に物事に取り組みます。感情を表に出すことが苦手で、一人で抱え込みやすい傾向があります」
読みながら、涙が溢れてきました。ずっと「ちゃんとしなきゃ」「弱音を吐いちゃいけない」と自分を縛ってきた。月やぎ座という性質だったのかと気づいたとき、何かがほどけていきました。
「こういう自分でいい」と初めて思えた瞬間です。真面目すぎるのも、感情を抑えてしまうのも、私の性質。欠点ではなく、ただの特徴なのだと。
「月やぎ座」という言葉は、私に安堵を与えてくれました。名前のなかった感情に、ようやく居場所ができた気がしたのです。言葉が持つ「名づけの力」を初めて実感し、自己理解の扉が開いた瞬間でした。
言葉に導かれて始まった星読みの道
占星術の言葉に救われた経験が、私の人生を変えました。「私も誰かに言葉を届けたい」という思いが、心の奥から湧き上がってきたのです。
ライターとして言葉を扱ってきた私にとって、星読みの言葉は新しい挑戦でした。記事を書くときの言葉と、星を読むときの言葉は、似ているようで全く違います。情報を伝えるだけではなく、相手の心に触れる表現。深い部分に届く響きが必要でした。
最初は戸惑いました。どんな言葉を選べば、傷つけずに真実を伝えられるのか。励ましたいけれど、押しつけになってしまわないか。言葉の重みを、身をもって感じ始めた時期です。
それでも、言葉が持つ可能性に惹かれていきました。誰かの感情に名前を与え、光を照らすことができる。人を前に進ませる力がある。星読み師として歩み始めたとき、私は言葉と本気で向き合う覚悟を決めたのです。
言葉に悩み、傷ついた日々|伝えることの難しさ

星読み師として活動を始めた後、私は言葉の難しさに何度もぶつかりました。良かれと思って使った言葉が、相手を傷つけてしまった経験。SNSでの発信における言葉選びの葛藤。言葉は救いにもなるけれど、刃にもなる。両面性を痛感する日々でした。伝えることの難しさと向き合いながら、私は今も言葉と格闘し続けています。
「当たってる」と言われることへの違和感
クライアントから「当たってますね」と言われるたび、複雑な気持ちになります。嬉しい反面、何か違うような感覚がありました。
私にとって、星読みは「当てるもの」ではありません。問いかけるもの。一緒に考えるもの。相手の内側にある答えを、言葉にする手助けをしたいのです。
でも、多くの人は占いに「正解」を求めています。「私はどうなりますか」「この選択は合っていますか」と。期待される言葉と、私が本当に伝えたい言葉の間で、いつも揺れていました。
当ててほしい気持ちはわかります。不安なとき、誰かに「大丈夫」と言ってほしい。でも、私が伝えたいのは答えではなく、自分で選ぶ力があるということ。
どう言葉を選べば、本当に伝わるのか。正解を求める相手に、問いかけを届けるには。言葉の選び方に、今も悩み続けています。
励ますつもりが、重荷になってしまった言葉
ある日、セッションで「あなたならできますよ」と励ましました。クライアントの星を読んで、可能性を感じたからです。でも、後日届いたメッセージに、胸が締め付けられました。
「できると言われて、プレッシャーになってしまいました。今の私には無理な気がして」
ポジティブな言葉が、相手を追い詰めてしまった。善意で選んだ言葉が、重荷になってしまったのです。
言葉の受け取られ方は、相手の状況や文脈に大きく左右されます。同じ言葉でも、心に余裕があるときは励みになるけれど、疲れているときは重さになる。タイミングや言い方、相手の状態。考慮すべきことは、想像以上に多いのだと気づきました。
「正しい言葉」なんて存在しない。相手に寄り添いながら、その瞬間に必要な言葉を探し続けるしかありません。言葉を扱う仕事の難しさを、身をもって学んだ出来事でした。
言葉の重みに押しつぶされそうになった夜
自分の言葉が誰かを傷つけたかもしれない。夜、ふとそう思うと、眠れなくなりました。
「あの言い方で良かったのか」「もっと違う表現があったんじゃないか」。頭の中で、何度も言葉を反芻します。書くことが怖くなり、発信できなくなった時期もありました。
言葉を扱う仕事には、責任が伴います。私の言葉で、誰かの人生が動くかもしれない。良い方向にも、悪い方向にも。重みに押しつぶされそうでした。
でも、言葉と向き合うことをやめたら、私は何も届けられなくなる。完璧な言葉なんて選べないかもしれない。それでも、誠実に向き合い続けることはできる。
失敗しながら、悩みながら、それでも言葉を紡ぎ続ける。言葉と向き合うことを選んだ理由は、救われた経験があるからです。だから私も、誰かに届く言葉を探し続けようと決めました。
軽やかさと丁寧さの間で|言葉を選ぶ日々の葛藤

現在進行形で、私は言葉選びの葛藤を抱えています。軽やかに表現したいときと、丁寧に選びたいとき。どちらが正解ということはなく、その時々で揺れること自体が自然なのだと思います。言葉との向き合い方に「完成形」はありません。揺れながら、迷いながら、それでも言葉を探し続ける日々について、お話しします。
軽やかに書きたい日|言葉を手放す勇気
いて座の太陽を持つ私は、自由に、軽やかに書きたくなる瞬間があります。思いついたことを、そのまま言葉にしたい。細かく考えすぎず、流れに任せてみる。
「正しさ」よりも「伝わること」を優先したいときの感覚です。一語一語を吟味していると、本質が見えなくなることがあります。完璧を目指しすぎて、かえって伝わらない文章になってしまう。
軽やかに書くことは、言葉を手放すことでもあります。コントロールを緩めて、言葉に任せてみる。すると、予想していなかった表現が生まれてきます。
勢いで書いた言葉の中に、本音が混ざっている。計算していない分、素直な感情が滲み出る。読んだ人に「生きている感じ」が伝わるのは、言葉が自由に動いているときなのかもしれません。
完璧でなくていい。少し荒削りでも、心が動く文章を書きたい。そう思える日があります。
丁寧に選びたい日|言葉を彫刻するように
やぎ座に天体が多い私には、慎重に、丁寧に言葉を選びたくなる瞬間もあります。特に、深い悩みを抱えた人と向き合うとき。軽々しく書いてはいけない気がするのです。
一語一語に重みを感じます。削ぎ落とし、磨き上げるような言葉選びのプロセス。どの言葉が本当に必要で、どの言葉が余分なのか。何度も読み返し、何度も書き直す。
時間をかけることでしか見えてこない言葉の質があります。急いで書いた文章には、雑さが残る。丁寧に向き合った言葉には、相手を包み込むような温かさが宿る気がします。
相手の痛みや不安に寄り添いたいとき、私は言葉を彫刻するように選びます。一つひとつの言葉が、相手の心に届くまでの距離を考えながら。
丁寧さは、時に窮屈にも感じます。でも、大切な場面では、この窮屈さが必要なのだと思っています。
揺れ続けることを受け容れる|言葉との付き合い方
軽やかさと丁寧さ。二つの間で揺れ続けることを、私は自分に許すようになりました。
どちらか一方に固定しなくていい。その日の自分、相手の状況、伝えたい内容によって変わっていい。揺れることを「中途半端」だと責めなくていいのだと気づいたのです。
ある日は軽やかに書き、ある日は丁寧に選ぶ。両方の自分がいて、どちらも本当の私。いて座的な自由さと、やぎ座的な慎重さ。相反するように見えて、実はどちらも必要な要素です。
揺れることそのものが、言葉と向き合い続けている証なのかもしれません。固定された書き方をしているときより、揺れているときの方が、私は言葉に真剣に向き合っています。
完璧な書き方なんて、どこにもない。軽やかさと丁寧さを行き来しながら、その時々で必要な言葉を探していく。言葉との付き合い方は、それでいいのだと思います。
揺れ続けることを受け容れる|言葉との付き合い方
軽やかさと丁寧さ。二つの間で揺れ続けることを、私は自分に許すようになりました。
どちらか一方に固定しなくていい。その日の自分、相手の状況、伝えたい内容によって変わっていいのです。揺れることを「中途半端」だと責めなくていいのだと気づきました。
ある日は軽やかに書き、ある日は丁寧に選ぶ。両方の自分がいて、どちらも本当の私。いて座的な自由さと、やぎ座的な慎重さ。相反するように見えて、実はどちらも必要な要素です。
揺れることそのものが、言葉と向き合い続けている証なのかもしれません。固定された書き方をしているときより、揺れているときの方が、私は言葉に真剣に向き合っています。
完璧な書き方なんて、どこにもない。軽やかさと丁寧さを行き来しながら、その時々で必要な言葉を探していく。言葉との付き合い方は、それでいいのだと思います。
言葉に出会い、導かれ、深める|自己探求としての言葉

言葉との関係性を通して、私は自分自身を知っていくプロセスを歩んでいます。選ぶ言葉には、私の価値観や恐れ、願いが映し出される。言葉と向き合うことは、自分と向き合うことと同じなのです。完璧な表現を目指すのではなく、探求し続ける姿勢こそが大切。言葉との旅は、自己探求の旅でもあります。
私が選ぶ言葉に映る、私自身の姿
使う言葉の傾向を見ていると、自分の大切にしているものが見えてきます。私はよく「揺れる」「迷う」という言葉を使います。完璧ではない状態を、肯定的に捉えようとしている自分がいるのでしょう。
逆に、避けている言葉からも気づきがあります。「絶対」「必ず」という断定的な言葉を、私はあまり使いません。決めつけることへの恐れ。正解を押しつけてしまうことへの不安。避けている言葉に、自分の傷が映っています。
言葉は、自分を知るための鏡のような存在です。何を選び、何を避けるか。どんな語尾を使い、どんな表現を好むか。すべてに、自分の価値観や感情が反映されています。
書いた文章を読み返すとき、私は自分と対話しています。言葉を通して、自分の内側を覗き込んでいる感覚。自己探求のツールとして、言葉は欠かせないものになりました。
言葉と向き合うことは、自分と向き合うこと
なぜその言葉を選んだのか。書いた後、自分に問いかける習慣があります。
表面的な表現の奥にある、本当に伝えたいことは何か。「大丈夫」と書いたとき、私は何を伝えたかったのか。励ましなのか、それとも自分自身への言い聞かせなのか。言葉の奥にある本音を探っていくと、自分でも気づいていなかった願いが見えてきます。
「一緒に考えましょう」という表現を好んで使うのは、答えを押しつけたくない気持ちの表れです。「きっと」という言葉を多用するのは、断定を避けたい慎重さから。一つひとつの言葉に、私の性格や価値観が滲み出ています。
言葉を通して、自分の内側が少しずつ明らかになる。書くことは、自分を知る行為でもあるのです。言葉と向き合う時間は、自分と向き合う時間。だから私は、言葉を大切にしたいと思っています。
完璧な言葉はない|探求し続ける日々の中で
「これが正解」という言葉は、存在しないのだと受け容れました。
どんなに丁寧に選んでも、誰かには届かないかもしれない。どんなに軽やかに書いても、別の誰かには響くこともある。言葉の受け取られ方は、私がコントロールできるものではありません。
探求に終わりはなく、だからこそ面白い。完璧を目指すのではなく、探し続けることそのものが大切なのです。迷いながら、失敗しながら、それでも言葉と向き合い続ける。
言葉を選ぶプロセスは、自己探求であり、人生を深めることでもあります。一つの言葉に悩む時間も、書き直しを重ねる時間も、すべて自分と対話している瞬間。無駄なことは一つもない。
完璧な表現なんて、どこにも存在しません。でも、探求し続けることで、私は少しずつ自分を知っていく。言葉との旅は、終わらない旅。それでいいのだと思います。
まとめ
言葉に出会い、言葉に導かれ、言葉と共に深めてきた自己探求の日々。励まされることもあれば、悩まされることもあります。軽やかさと丁寧さの間で揺れながら、私は今日も言葉と向き合っています。
言葉との関係に「完成形」はありません。でも、だからこそ成長させ続けてくれる。あなたも、言葉との向き合い方を通して、自分自身をもっと深く知っていく旅を始めてみませんか。迷いながらでいい。探求の先に、きっと新しい自分が待っています。