今日は何か違う記事を書きたかったけれど特に何も思いつかず。

そんな時はやっぱりタロット。それがタロット使いのサガというものでしょうかね🤭



『何について書こうかな?』という質問で出たカードはカップクイーンの逆位置でした。

不安や嫉妬、激しい嫌悪や怒り、とめどない悲しみといったネガティブな感情へ振れていることを主に示しています。

けれどタロットの逆位置って正位置がいつも下地にあるんですよね。カップクイーンの場合、本来高い感受性や愛情、慈愛を持つ(もしくはその素養がある)人にこそ『カップクイーンの逆位置』でもって現状が示されるという感じ。



こんなふうに思考が進んでポン、と思い出したのが思想家で作家のエミール・シオラン。

彼の思想は悲観主義とかニヒリズムとか評されるようで、人を選ぶ言葉が多いかなとも思うんですが、鋭く痛烈な分、夢物語ではない現実的な希望を指し示してくれる心地があります(なんて語りつつ私はまだ二冊ほどしかシオランの著作を読んでいないんですが😂)。


無言のまま指でトントンと『ここに希望はあるだろう、ほんの少しだが』と教えてくれるような。文章なのに無言のシオランが何故か思い浮かぶ。




カップクイーンの話に戻りましょう。

逆位置は正位置と切り離されていないという感覚、そこから思い出したのが以下のシオランの文章。

何ごとによらず、人間にかかわる事どもを烈しく嫌悪する心は、慈悲の心と両立する。私としては、一歩をすすめて、この二つの心的反応は連動している、同時に起ることはありえないけれど、と言っておきたい。烈しい嫌悪を知る者だけが、強く、深く、慈悲の心を動かすことができる。

(『告白と呪詛』より)


嫌悪と慈悲、一見して相反するこの心は連なって動くものだとシオランは言います。これは私にとって大きな救いでした。



私を優しいと言ってくれる人は時々いました。器が大きいとか包容力があるとか。けれどそれはあくまで私にとってもその人が大切で、敬っていたからの話。


振り切れた嫌悪感の激しさは自分の事ながら凄まじく、相手の頭の先からつま先まで、ひとつひとつ滅多打ちに出来るくらい批判や指摘や罵詈雑言の言葉が溢れてくる。

それは多くの人が良しとしている人や集団、物事に対しても、私の目から見て筋が通らなければ関係ありませんでした。

言葉の量や表現は常に調整していたけれど、それでも「あなたの言葉でひねり潰されるようだ」と返された事もありました。



そうして自分の二つの側面が両方とも存在感を増してくると、人を敬ったり慈しんだりする心は本物なのか?と疑念が湧いてきます。

ここまで徹底的に人を嫌う事の出来る自分が逆に人を尊ぶとき、何か白々しいのではないかと思えてくる。


人はなぜかネガティブな性格や振る舞いになる方を『本性だ』『素の性格だ』とみなしたがりますよね。酒に酔ったときの態度がその人の本性ナンダー!!みたいなやつ😂😂理性だってその人そのものを構成するひとつの要素なのにね。


そんな思考に陥ったり這い出したりしてるときに読んだのがシオランの著作でした。

ぶっちゃけ生きている事が好きじゃない。生きる楽しみなんて人生に毒づくことくらいでしょ。生きることなく済むとしたら…、なんてことばかり書いてるけど、でも生きる。

彼の持つこの世界への目線とスタンスが私には合っていました。


そして引用した嫌悪と慈悲の連動の話。

私の疑念とは逆に、烈しい嫌悪があるからこそその慈悲は本物だとシオランは言ってくれたように感じました。

カップクイーンのカードについても、逆位置で出たときその感情のネガティブ方向への膨張は、慈悲や慈愛の心が湧き立つ布石かもしれない。そんなことを思います。




このタイトルで記事を開いてくれた人の中には、私と同じ形ではなくともシオランの思想が響いたという方もいるんじゃないかな。

どうかな〜。いないかな?😳笑



ではでは、とっ散らかった文章になりましたが思想家エミール・シオランの紹介でした😌🍀