人を救いたいと思うのは自分が救われたいからだ。


私が占いをやってみたいと思い始めた頃、先にネット上で発信をしているセラピストさんたちがよく言っていたことです。

確かになぁ……と思った私は占いの勉強をしながら「自分を救う」を優先してきました。


自分が一番どうにかしたい・救われたいと願っていたことは、「傷ついた君も含めて好きだ」というイケメンな発言によって一瞬で救われてしまいました。

(詳細は「あたたかい気持ちに着地。」を参照)


あの言葉には「人や何かを思って痛みを感じられる、その心が美しい」というニュアンスが含まれてて。


なんかもう、完全にやられました。

「そのままでよかったんだ……」って思わされたというか。


今もあのときの余韻は残ってます。


そんな風にして自分で自分を救えた経験が私にはあるからこそ。


そんな簡単に人を救いにいかない。

私には気を付けてることがいくつかあります。

たとえば「自分ができてないのに人にアレコレ言うのはやめよう」とか。


他人が助言を求めてないのなら、思うところがあっても言わない。

相手の学びを私が奪うわけにはいかないから。


どうしても言いたいことがあるときは、自分の経験談を適切な場所で伝えるだけにする。


人に何かを思うのは自分の問題。

人が気になるときほど自分の心を見つめるように。


人の数だけ正解はあるから。

決めつけない、断定しない。

相手に考えさせるスキマを作る。


求められたときだけアドバイスする、答える。


などなど。

口を出さずに信じて待つ姿勢。

最近は父親的な見守りを選択することが増えました。


エイブラハムの教えを実践してると「他者をコントロール不可能なもの」としてみなす分、自立を促すような対応になりやすいです。


求められてないのに口出し・手出しするのは、非言語レベルで「あなたには解決できない(解決する力を持ってない) 」と言ってるのと同じだ。

という話を聞いた影響もあるでしょう。


(もちろん、命にかかわるような緊急事態は例外で介入するケースはある)


その人に「自力でどうにかする力、あなたにあるよ! 」と伝えるため。

その人の持ってるパワーを心から信頼するからこそ「黙って見守る」という行為になるんですよね。


特に私は母との関係性において実践することが多くて。

良い訓練になったなぁと思ってます。


まずは自分が手本になる。

「自分でやってみてその体験を伝えることで他者の助けになろうとする」が私の基本スタンスなんだなぁと、書いてて気づきました。


その人の言葉より行動を見れば、本心がどこにあるのかなんてすぐに見破られてしまうから。

できる範囲で言ってることとやってることが一致するように日々、努力してるけど。


私も人間だから迷ったり間違ったりするときはあるし、できてない自分に気づけないときもある。

悩んだり葛藤することだってある。


うまくいってない最中のことでさえ誰かの助けになるかもしれないと思うから、私は書ける範囲で書くようにしてます。


自分の体験を共有することが私なりの「救い」なのかもしれません。