すべてを灰色の世界に置いて
鈍くねむらせようとした
胸に穴があくような感覚も
おなかにどす黒い鉛が鎮座する感覚も
これ以上あざやかになったら
歩きつづけられないと思った
それでも感情はあふれでる
その度になんとなく格好のついた言葉を綴って
生きのびてきた
そっか
感じることを避けるクセは
かつてのわたしが自分を守るために
身に着けたものだったんだね
鈍らせても抑え込んでもなお
感情がわきあがらなかった日なんてない
その驚くほどのゆたかさに
笑うしかないわたしがいる
***
「わたしは不安や恐怖を感じやすい人間」だと思って、長らく生きてきました。
今日だって、差し迫っている案件の準備ができていないことを思い出して、不安がこみあげました。
この不安をなくすには、一刻も早くその案件に対処せねば。どこから手をつける?そんな作戦会議が頭のなかで始まったとき、ふと気づいたのです。
「あれ、わたし不安の感覚から逃げているのかも」
昨日もこう書いたばかりです。
『わたしが心から安心を感じるのは、自分の感情や感覚を、自分でちゃんと感じきることができたとき。』
小学生のころから30代の現在にいたるまで、毎日のように不安を感じてきたわたし。不安の感覚には耐性がある、ぐらいの自己認識をしていたのに、いやいやどうして、不安の体感覚を味わったことはまるでありません。
子宮のあたりがちくちくして、腰も少し痛い。
胸がせまくなって、背中は硬い。
身体に意識を向けるとこんな感覚が確かにあって、それを受け取ったあとには「一刻も早く対処せねば」という思考は鎮まっていました。
***
どうして感情が起きるときの体感覚を避けてしまうのだろう?と考えてみたら、中学生時代を思い出しました。
当時通っていた中学校は荒れていて、無防備な心のままでは傷つくばかりでした。そんな環境でも負けずに進みつづけるために、感情や感性を鈍らせてフタをすることを自ら選んだのです。
それから20年あまりがたった今でも、ネガティブな感情への対処法はそのころのまま。思考をうるさくすることで感情を感じないようにしている間に、なんとかトリガーとなった事象の改善をはかろうとするのが板についています。
その方法で輝かしい成果を出せた過去も、確かにある。一概に悪いものとは言えない。とはいえ、しんどいのでもうやめたいのが本音。
そうであれば、まずは自己認識を改めるところから。「わたしは感情や感性を鈍らせているのが通常運転」だと認めて、いつものパターンを丁寧に抜け出していく必要があるのでしょう。
その先でどんな感覚や言葉がみつけられるか、自分のこれからがなんだか楽しみになってきました。