「前説」という言葉には、以下の意味があるそうですね。

GoogleAIによる概要

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前説(まえせつ)とは、ライブやテレビ収録の本番前に、観客への諸注意やマナー説明、会場を盛り上げるためのトーク、簡単なネタ披露などを行うことです。主に若手芸人やADなどのスタッフが担当し、出演者の登場前に観客のテンションを上げ、本番への期待感を高める役割を持ち、芸人にとっては平場のトーク力や対応力を鍛える重要な場でもあります。

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単なる前置き的な説明の機会…という程度にしか思っていませんでした(汗)前説って言葉には、こんな実際的な意味があったんですね。

こんな面白くない内容、前説ナメんなとか思われそうですね…(汗)

知らなかったとはいえ、言葉を使ってしまったからには、面白くなるよう頑張ってみましょう。自信ないですけれど。

(前説じゃなくて、考察とか導入とかいった言葉だったら、よかったのかな?…でも、ソレもなんかしっくりこないんですよね。難しいものです)

ともあれ何事か制約の無い世界なので、自由にやってみようと思います。


改めまして、

昔から、タロットをテーマに考えていることがあり…その考えをまとめて、本を書きたいと思うようになりました。

(ちゃんと売れるものにしたいという願望があります。)


西洋から日本に輸入されてきたタロットは大変、魅力的で…本当に多くの方々を魅了してやまないものと思います。


占いのツールとしてばかりではなく、これまでタロットに見いだされてきた人や物事へのナラティブとしての作用や展開…

自分の考えていることは、タロットに込められているという0から21の旅路物語に、ちょっとならず違う視点をもたらすものとなりそうです。


その視点から見つめるタロットは、読み手によっては、たとえば

古く神秘学に謂われてきた『セフィロトの樹』をなぞらえたり

聖書を紐解けば、マタイの書にある『十人の乙女のたとえ』というくだりをなぞらえることもできそうで

段組みを眺めると、お能で聞いた『神男女狂鬼』として捉える事も出来たりと

今、思いつくのはコレくらいですが、特に10(人類らしく、手とか足の指の数)で、まとめられた話は様々、取り込んで考える事が出来そうです。


なので私は仮に、“貘(ばく)”と呼んでいます。

悪夢を食べてくれるという幻獣ですね。


ただしマイナスの扱い方もある気もします…

占いのツール・タロットを扱うからには、やはり読み手の心根・心がけ次第ということで。


この“貘”とは、どう付き合ったらよいのでしょう?

占いをしているときは大概の場合、全く現れません。

けど、この“貘”の性質を知っていると、読み解きの参考になるかもしれませんし

逆に、あまりにも“貘”に傾倒してしまうと…柔軟な読み解きができず発想力が縛られてしまうかもしれません。

そこは読み手を信じてみようかなと。


さて、“貘”とは何のことを話しているのでしょう?

それは、前説が終わった頃にでも。

(いっそタロットそのものが、占いそのものが、本来的には“貘”の一種なんじゃないかって気付きでも、よいと思います。)


前説が必要な理由は…「概念」というものが話の骨になるので、まずは血の通う肉体や顔…表情・感情、動きなどが見えるものとしてイメージしやすくするためです。

いきなり骸骨を見せられると、怖くなったりしますよね?

概念の世界でも、同じことがあるように思うんです。(それで失敗したことが、あった気がするので…)


動物のバクのされこうべだけ見せられても、不気味だし意味がわからないですよね。素人にはバクともわからず単に動物の頭蓋骨だとしか思わないし、そんなものいったいなんなんだって話で。

現実の動物・バクを犬猫みたいに飼うことは難しいでしょう。でかい。というか調べると、どのバクも絶滅危惧種として個人が飼うことを禁じられてます。夜行性だし、悪夢を払う験担ぎにしても、よほどの数奇者でなければ飼う気にもならないかもしれません。


そんなリアルのバクではなく、心に見る“貘”なので…コレについてを、どう書き表したらよいのかわからないままですが、不定期で、アウルブックに書いていこうと思います。

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実際の動物で言うバクでは、私はマレーバクが好きです。

身体の模様は独特の白黒で、もしかするとパンダロストの方々には、より印象的かもしれません。(全くの別物ですが…)

仔バクの模様など、とても瓜坊(イノシシの仔)っぽくて、でも足の爪が大きくて、不思議な存在感があります。

身体つきは、毛足が短く意外とスラッとした印象で、もっちりした感じがあり…ガラス越しに目の前で泳いでいる姿を見たことがありますが、動きはとてもダイナミックです。

普通(?)の茶色いバク…アメリカバク、ベアードバク、ヤマバクなどですね。も、バクに共通する独特の愛嬌があって、かわいいと思います。

特にバクは、鼻と耳に愛嬌を感じます(笑)


日本には野生のバクが存在せず、中国からの仏教伝来とともに、邪気払いがあるとする貘の伝説や毛皮などがもたらされたとのこと。

貘は夢を喰う…という言い伝えは、日本で発展したものなのだそうです。

きっと漫画や小説・アニメなどにも見てきたように、日本国は物語の分野でも伝統を重んじながらも施される魔改造大国たる片鱗を感じます(笑)

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タロットを、詩的解釈や修辞学的な捉え方をする試みとして、様々なスプレッド方法は楽しめるかもしれません。

もしかすると、様々なスプレッドの読み解きは、時の運で並ぶ絵札に占われる人にも、その詩的解釈や修辞学的な知的作用というものを刺激することで、行き詰まっている日常や関心事に対し、新たな視点や新鮮味をもたらすのかも知れません。

つまりスプレッド法の多様性は、そのまま展開される心の旅路の多様性といったところでしょうか。


動画占い師さんのオリジナルスプレッドの見事さたるや、各々方の心の旅路の豊かさ・言わば添乗員としての行き届いている様子など、さすがだなぁと思って視聴したりしますが

旅物語を辿ることで、占われる側は新たな発見や気分転換があると思います。


ナラティブとして、タロットを捉える。

としたら、タロットの持つ占いとしての神秘は、どこへ行くのでしょう?

占術ツールを触媒として、そのままセッションする占い手と占われる側の双方に、人間そのものから神秘は醸されるのではなかったかな、と。

それも一つの命の輝きだと思います。

人は、自分なりの命の輝きを求めているところもあり、占いもまたソレを人にもたらしたり指し示したりする営みだったかもしれません。


タロットそのものに感じる神秘の正体は、なんなのでしょう?

もとい、なぜ人はタロットを扱って神秘を発揮してきたのか?(シェルレェル…超現実主義での営みも、その一つだったかなと)(コバトンボは衒学者…にも満たないヘタレなので、詳しく知りたい人はイロイロ調べてみてください。『魔術的芸術』とか、アンドレ・ブルトンとか、その辺だったと思います。)

昔から、人々の手に手に渡り、道具として使われる用途に応じて姿を変え品を変えて、それなりの遍歴・歴史を持っているから…人間は各々が持ち合わせる・人となりの神秘で応えてきたのでしょうか。

始まりの頃、画家たちに見出された絵柄、数・札の意味内容なども、どうしてこうなった?という謎…長年をかけて手に手に渡らい、人々の醸してきた文化的営為そのものも、本当にミスティックです。


もはや人間、というだけで神秘なんでしょう。

神秘そのものであり、神秘を担うもの。

(けど、たぶん人間が神秘の領域たり得るには機微に満ちているからこそと思い込んでいるためか野暮はいけないと畏れている。平拍子が常の環境で裏拍を取り逃しがちなのを悔しく思う。みたいなこと?とか。関係ないと思うんですけれども、この世に生まれてきたこと・生きているだけで十分、神秘なのですから。)

もうちっと視野を広げると、生き物という神秘的な現象が、広い広い宇宙のなかで、今のところ地球上(と、地球由来のもの)でしか人類は知り得ていません。

宇宙探査には、何があるのかということそのもの、純粋な興味・知的本能…いずれ実用性や資源としての関心のほかに、生命の痕跡を探る・生命の可能性を探す、というものがあります。

宇宙探査の科学者たちが求めてやまないように、生命現象そのものが宇宙では神秘です。


そもそも宇宙そのものからして神秘です。

その宇宙という神秘のなかに、生命現象の一部として生きている私たち人類もまた、れっきとした神秘の一部だろう…という気付きを辿れます。


じゃあなぜ心臓は奇跡を識ったときめきにビートを奏でず平たい日常を襲う諸問題に心疲れて生きている…みたいなことになってる人々が、行き詰まりに悩む人々が、現実では尽きないのでしょう?

自他の醸す奇跡に慣れっことなり、神秘の只中たるはずの日常に想像力なく生きていれば、ワクワクする気持ちも忘れてしまいます。いずれ悩みに囚われてしまうかもしれません。

想像力を疚しく喰われた悪夢を常とし、いっそ悪事に荷担して生きているならば、絵空事の貘を知ったとて、あまり意味はないのでしょう。


…違うなぁ。

こういうことを書きたいわけじゃない。

話はどこでしたっけ?

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あ。そういえば、たぶん

大事なことを考察していません。


「ナラティブ」って、なぁに?(爆)


コレ、なんにも調べないで流してたらダメな気がしました。


端的に「物語」と訳されますが…ではストーリーとナラティブの違いは、なんでしょう?

人生で各々が経験してきた物語は、同じ国や地域に生まれても、同じ学校や家庭にあっても、違ってきます。

「体験してきた物語」を、ナラティブって言うらしいです。

ゲーム用語としてのナラティブから、私は言葉を知りました。

ゲームでのナラティブに関する研究は、とても進んでいるようです。

参考サイト:

「ペルソナ」「キャサリン」「メタファー」に実は共通点? 橋野 桂氏×副島成記氏が語る,記憶の設計論とは[G-STAR 2025]

https://share.google/v3eajGpWLjG3jnlYt

[CEDEC 2013]海外で盛り上がる「ナラティブ」とは何だ? 明確に定義されてこなかった“ナラティブなゲーム”の正体を探るセッションをレポート

https://share.google/6d5NMwsziCGmPEUt7


タロットをモチーフにしたRPGゲームといえば『ペルソナ』シリーズが有名なようです。初期作をプレイしてきましたが、もうシリーズとして世界を跨いでいるんですね。(ちなみに私は4が好きです。)

かつて発祥の頃はカードゲームだった占いツールとして知られるタロットは、現代になってコンピューターの中で“先祖返り”して、またゲームになっちゃった!?…みたいですね(笑)

そういう視点で見ると、また面白い・興味深いところです。


スミマセンうろ覚えや読みかじり(理解に確信がないまま)でラフに説明しているので、本来的な意味でのナラティブとは厳密にはかなり違ってきてしまうと思うのですが…

たとえばRPGゲームがあるとします。

たくさんの人が、そのゲームをプレイします。

そのプレイヤー各々についてですが

たくさん予備知識を仕入れてからプレイする人と

全くの予備知識なしでプレイする人とでは

なんだかプレイ内容…体験していく物語に違いが出るもんなんだと思います。


そーゆーのの各々を、ざっくりナラティブと。

ナラティブ・フィールドを展開するゲーム製作者たちは、ユーザーに向けて三者三様・十人十色・千差万別で皆、思い想いに楽しんでくれと。


そーしますと

操作方法や、たとえば剣と魔法の世界観についてなど、そこから?という基本的な知識と経験の有無は、ゲーム世界にスンナリ馴染めるかどうか、という違いも出てきます。

(逆に、プレイすることで基本的な知識や世界観を楽しく覚えさせたり、操作方法もスンナリ身につけさせるゲームは、素晴らしいゲームだなって思います。)

タロットで言えば、たとえば

0番のカード名称は愚者で、その意味内容は云々…1番は魔術師で云々…2番は…

と、この0番から21番までの名前から意味内容を知っているかどうか、が基本的な知識にあたるのでしょう。

(剣と魔法の世界では、ドワーフがいたりエルフがいたり…各々がどんな種族でどんな生活をしているのか。戦闘ユニットとして考えると、どんな特性があるのか?…といったような)

ただしゲームに関しては、プレイする本人が楽しく遊べるのかどうか…という部分が重要なので、その為には、ありったけ予備知識が必要な人もいれば、予備知識ゼロどころか取説すら読まないでゲームスタートする方が楽しい、という人もいるでしょう。

占いをする時も、占いができるかどうかという事と、絵札や卦の意味内容の理解度は、あまり関係がない…という事と、たぶん共通します。(※ちゃんと読み解きたいなら、よっぽど天才肌じゃない限り、参考になる読本は要ると思います。)


そこでタロットに見つけた“貘”のことですが

つまり、これはゲームでは無いのですが…占いでも無いんです。

なんというか、読み物なんですね。

読み手によって読み解き方・プレイ内容が変化するナラティブ・フィールドそのもの、みたいなもの?なので

ちょっと予備知識があった方が遊びやすい…もとい読みやすいのではないかなと。

それで、きっと前説が長くなるのですが

読み手によって、予備知識に興味の浅さ深さに違いが出るのも、その後の物語体験には違いが出るのだと思います。

(前説など必要ない人も、少なくはない気がしています。)

なお、今後もここで述べていく前説なる長話についての把握は、本当に、ざっくばらんで良いと思います。

その方が、細部にとらわれて矛盾が気になるといったことには陥らず、読む上での自由度は高いかも知れません。


ナラティブって結局なに?ちょっと何言ってるのかワカラナイ…という人には、どう言ったらよいのかな(汗)

タロットを、占い道具ではなく

物語を編んだ物として見てみると、人によって読み取るものが違ってくるよ、と。

いわゆる『千夜一夜』と言えるかわかりませんが…どう説明したらよいのかをどことなく考えあぐねていた日々は、少なくとも数年間くらい忘れながら十数年くらい経ってる感じです(汗)


どうしてタロットは物語が編めるのでしょう?

もしかすると、卜占(ぼくせん)ならではの特徴かもしれません。

なかでもタロットは、多彩なスプレッドを展開して多くの人々を魅了してきただけあって、浪漫タップリです。

タロットは、そもそもどんな物語(歴史と環境)によって編まれたのでしょうか?

0から21まで描かれている個人個人の辿るという数ある旅路は、いったいどんな物語を持ち合わせていたのでしょうか?

“貘”は、いたずらっぽく笑っています。

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私がタロットに見つけた“貘”は、たぶんプログラミング用語的に言うところの“エンジン”です。

占いツールに組み込まれてみて機能するタイプのものだとして…タロットは恐ろしく相性が良かっただけかもわかりません。

というか、タロットからしか、私には“そのようなもの”は見つけられませんでした。

(というか、他の占いツールをじっくり検証したわけではないので、本当のところはわかりません。)

エンジンというからには、タロットという窓を介して、人生というナラティブ(旅物語)を経る際に有効な推進力…に、なるはずです。

行き場のないエネルギーには適切なリズムとパイプラインを与え、夢や目的に対して、より有効な活動が保てるよう…に、なったらいいな(笑)


“貘”で何をしたいのかというと、私は『パロ』みたいなものを目指したいと考えています。

メンタルコミットロボット「PARO-パロ-」 | NDソフトウェア https://share.google/neevW55RhIZyo6PJA


イーロン・マスクが、日本のロボット産業を評価した時、技術は(効率の鬼に支配させるのではなく・支配のために技術を扱うのではなく)人々の笑顔や幸せのためにある。といった主旨のことを話したそうです。

その違いがわからないなら、価値あるものはつくれない、と。

(ショート動画の拾い読みなので、実際の言葉とは、ちょっと違うかもしれませんが…)


「何を目的としてつくるのか?」が重要なのかなと。

パーパスを問う。とでも言うのでしょうか。

…パンパースじゃありませんよ(爆)

パーパスとは、たぶん志(こころざし)とか目的とかいった意味だったと思います。

ナラティブ(物語)は、あるペルソナ(人格)によるパーパス(志、目的)の容れ物あるいはジム(鍛錬の場、道場)、でもあるんだと思います。

(ナラティブには、居場所に近い心理的な作用があるかもしれません。人格の揺らぎ・目的設定の甘さといった要因次第では、程度も様々な依存に陥る可能性を考えるので、注意点だと思います。)


『パロ』は、接した人を笑顔にするロボットです。

でも、私の見つけた“貘”は、愛嬌はありますが、『パロ』のように、可愛いねぇ〜ってナデナデできる感じではありません(汗)


見た目や感触の問題でカバーできるにしても、中身に向いている容れ物になるものだとすると…

解像度高めのガチリアルな容姿をしたロボットが、どうやったら人間を笑顔にできるでしょうか?(汗)

『鉄腕アトム』みたいに、人々と笑顔で交流しながら、彼にしかできない仕事をする。

ロボットとの会話や交流で、かけあい漫才やコントみたいなことにもなる(爆)

もしかしたら“貘”は、そこまで応用ができる発見かも知れません。盛り過ぎですけれども。

私たちは、ひょっとしたら“貘”を搭載したロボットを相手に人間と変わらない交流をしながら、人間として大事なことも必要に応じて教えてもらったりできる・間違ったことをしたら適切にツッコまれて諭してもらえる…なんて未来が、あるかもしれません。

“貘”なんて関係なく、まずは手元の端末を介したAIで人間との交流を重ねて、その内にそうなっていく…んでしょうね。(人類は様々なプログラミング・エンジンなりインターフェイスなりデバイスなりなんなりを目的に応じて考案して開発して…すでにやってきていることと思います。ただロボット開発をする目的によって、その優先順位には高い低いがあると思います。)


そんなわけで、ここではタロットをかたどった木札をパタパタ繰り出して人間と交流を図るカラクリ人形みたいなイメージで、“貘”の仕組みについて考えながら肉付けをしていこうと思います。

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昔、いわゆる手塚治虫の黒本(黒いカバーをしたシリーズの漫画単行本)で『鉄腕アトム』の表紙に、アトムの顔の中身を描いたものがありました。

アトムはロボットだから、あの顔は“殻(仮面)”なんだな・漫画やアニメでも研究所でのアトムの様子を見てきたように、中身は機械なんだな…って、子供なりに端的にわかりました。

人間も、トルソーなどで見ても筋肉だけの顔になると、まぁあんな感じの印象を受けると思います…たぶん一般的には不気味です。

でも、子供の頃から手塚治虫の『ブラック・ジャック』とか読んでたので、私は(もちろん、絵的な表現での)中身を見ることには慣れっこだったみたいです。不意に中身を見ても、あぁそういうものなんだなって、(人間の骨格や表情筋がどうなっているのか?といった)事実や(空想科学上だけどもロボットなるものの)実際的なものとして受け入れることができていたと思います。

あの頃、誰でも深いことは考えず、そんな感じだったように振り返ります。今の時代でも同じようなんだと考えます。

生体でも機械でも、脈絡なく中身が見えている状態は、たぶん非日常性とか異常性を覚えます。人によって、このことの感じ方の差は大きいと思います。

概念を伝える上で語られる概論や概要も、もしかしたら老若男女や立場を問わず、むき出しの筋肉や骸骨のような印象をもってソレを気持ち悪く思い、受け止めがたく感じる人も、あるのかもしれません。

(また、あまりにも単純化された概念に生きることは、暮らしをシンプルにする反面、同じ概念を共有できない人々とは、人間らしい交情を紡ぐに足りないものも出てくるかもしれません。)


かつて西洋で魔女が気味悪がられたのは、キリスト教とその教会が取り仕切る社会では、本質の扱い方が異質・非日常だったから…かもしれません。

そうしたこととは関係なく、西洋の精緻な静物画には、果物の他に、時には髑髏や狩猟の獲物が描かれたりしていますので、ちょっと驚いたりします。

タロットは、ちょっとそんな古典的な雰囲気が、絵札の象徴には、あったかもしれません。


まずは“貘”としても、いずれは可愛いねぇと言ってもらえる・愛される方向で、なんか面白い・興味深い話になればな、と思いながら下手っぴな前説を綴っています。