ゆうやさんのライブで描いたを絵を見直して、母のことを思い出した。
母にもよく似合いそうな柄だなと思ったから。
母を象徴するなら牡丹より薔薇だし。
黒地(または濃い紫)の布に、とても大きな真紅の薔薇が一輪、ドンと描かれてて。
細い金の模様とかが入るような、着る人を選びそうな柄のほうが似合う。
現実を自分の心を映す「鏡」とするなら。
母は激しい要素を持った人だったのは、それ自体に意味があるように思えてくる。
同族嫌悪してただけかも。
私にはそんなのあるはずない!
そんなのは私じゃない!
って。
否定したい心が激しさとなって現れていたのかな、とか。
……否定したくなってる時点で「ある」って、認めてるようなものなのに。
いい加減、受け取ろうよ。
母が持つような「毒」も「トゲ」も「クセ」も、私にはないと思いたかった。
でも、ゆうやさんのライブで描いた絵を見るかぎり。
「母から受け継いだ要素は自分にもある」としかいいようがない。
……よく考えてみれば。
私の精神の中心に「刀」がある時点で、キラキラ・ふわふわしてるわけがなかった。
少し視点を変えると。
私に向けられた「母の怒り」って実のところ、私の無意識の叫び声だったのでは?
そんな風にも考えた。
「なんで認めないんだ! お前にだってあるだろう! 」って怒りで返されてる感じ。
当然、怒りは表面的なものでしかなくて。
その訴えの先にあるのは、
お前が認めたくないものの中にこそ、お前にしかない魅力が詰まってるんだろうが!
持ってる魅力を自分から消してる場合じゃないだろ!
みたいな。
怒りよりは悲しみ。
どうして受け取ってくれないんだ!という叫び。
ごめんな。
母親ほどではないにしろ。
誰かの目を引くようなDNAはしっかりと受け継いでいそうな気がした。
自分のダークな部分を受け取ってみたら案外、心地よかったし。
離れていく人が居ても、なんとも思わなくて。
「いままで違う人のフリをしててごめんね」って思ったぐらいだった。
自分に対しても人に対しても。
一旦、自分の「心」を観る。
というわけで、ここからは「私らしい話」を。
(人によっては耳の痛い話かも?)
他責にするのは簡単だからこそ、自分の心を省みる力が大切だなと感じてます。
我慢してたことはなかったか。
そのとき本当に言いたかったこと、ぶつけたかった気持ちはなかったか。
過去のことは見なくていい、スルーしていいという派閥もあるけど、私には合わなかったようで。
創作でもいいから、心残りのある過去を自分なりに決着を付ける。
ケジメを付けてやっと現実が動き出すことのほうが多かったです。
もちろん、人それぞれに合った手法はあるはずだし、私のやり方だけが正しいとは考えてなくて。
これまでの人生経験から
心残りを自分で回収しないと、いつまでも同じところに戻ってしまうよね。
というのが私の持論だ、というだけ。
自分の行いに集中する。
感情的に強く反応する所があるのなら、言語化されてない思いが眠ってる証拠。
さまざまなバリエーションの「人」や「事」が目の前に現れてくれるおかげで、私は私の「どうしたい?」を発見できてるし、自己理解がどんどん進んでます。
「あの人のこういうところが嫌い!」で終わらせないで。
「じゃあ、私はどうしたいと思ってるの?」と問いかける。
自分にとって絶対に外せない、譲れないものを見つけたなら。
あとは自分が自分のポリシーに従って動けているなら、それでよしとする。
他人に「やってよ!」と要求しない。
やってくれることを期待しない。
「あの人は変わりっこないから、何も言わないでおこう」とかではない。
他人は関係なくて、私は私の在りたい姿を体現していようってだけ。
自分の大切にしたいものはっきりすればするほど。
「相手にも同じぐらい大切にしたいものがあるんだ」と気づくようになりました。
いままでなら違いが見えたときに「私のほうが正しい!」 と他者批判、反発心から動きたくなっていたところを。
今は正しさを他者に主張したくなったときほど、自分に矢印を向けることを強く意識してます。
母から受け継いだ「強さ」を、うまく自分の中で循環させれる仕組みが私の中で機能しつつあるようです。